8月24日

 

 気晴らしに詩を書いてみる。

 

 歌

遠くの空から 歌が聞こえる

涸れた土地ではひとりの女が

小さな赤児を抱いている

微かな寝息と共に

やがて雨が降る


遠くの空から歌が聞こえる

博物館をそぞろ歩く

剥製の前に立ち止まる 

老いた男は 失った過去を

朽ちた瞳の裡にみる

やがて雨が降る


遠くの空から 歌が聞こえる

煙草を巻き終えた青年は

叶わぬ恋に身を焦がす

書きかけのラブレター

そして雨が降る


遠くの空から歌が聞こえる

汗の乾いた農夫の座る

刈りたての道から青臭い匂いが鼻につく

少女に向けて仰いだ麦わら帽

やがて夜が来る

 

 

 猶予

彼の部屋には時計がなかった。だから、彼が目醒めたとき、蒼ざめた景色が朝焼か残照かどちらによるものか、知る由もなかった。

彼が知りえたことはたった僅かなこと__依然、自分がここに居て、そして身体の芯まで渇いている___ということだけだった。

彼はキッチンに向かうと小さな冷蔵庫の扉を開いた。ハイネケンがひとつある。その発見は彼にとって意外に思えた違いない。

長いこと彼は十分に眠ることができず、身体、精神ともに疲れ切っていたはずだが、心は自然と穏やかだった。

静寂そのものだった。時々、鳥のさえずる声がした。しかし、それさえも彼が捉えていたかはさだかではない。

どのくらいの時間が流れたのだろうか。長い精神の沈黙ののちに一つの問いが浮かんだ。音韻は残響を残し、心の裡のどこか途方も無い彼方へと消えた。

それから間もなくだった。スマートフォンのけたたましいアラームが鳴り、徐々に彼は思考を始めたのである。

 

7月30日

 仕事を終え、大学構内の林を歩いていると街灯の明かりの下でカミキリムシが腹を天に向け悶えていた。都心のど真ん中でヒキガエルを見たことはあるが、カミキリムシは初めてだ。足を止めしばらくの間見守っていたが、ひっくりがえったまま起き上がれないらしい。人差し指を差し出したものの、虫は一向につかまらない。今度は落ち葉や木の枝などに脚をひっかけてやろうとした。だが、虫は脚をばたつかせるだけで触ろうとさえしない。どうも様子がおかしい。

 暗くてわからなかったが、目を凝らしてみると虫は負傷していた。触覚が欠け、左半身の足が足りない。それだけならまだ生きていられるが、おそらく脳にあたる部位が欠けていて、平衡感覚を失っているに違いない。

 彼は今死にむかっている。今まで自分がみていたのは虫の愛くるしい姿ではない。激痛に悶え狂気に駆られた声のない叫びだ。そう悟った瞬間、それまで抱いていた愛らしさや慈しみが一変するのを感じた。恐怖に駆られ、虫をおいてその場を歩き去った。だが、自宅へ向かうしばらくの間、人差し指に厭わしい余韻を感じずにはいられなかった。

6月10日

 

 不意に本棚を眺め『アメリカ現代詩101人集』という懐かしい本を手に取ると、そのままデルモア・シュワルツの詩を読むことにした。この本は、彼の詩が読みたいがために買ったも同然だった。

 もっとも、詩集の中に彼の詩は一篇しか載っていない。「ボードレール」という題で、お世辞にも(翻訳が悪いのかもしれないが)卓越した詩とは呼べない。ボードレールの「惡の華」の序詩にインスピレーションを受け、彼の生活そのままの叙景に言葉を移し替えたようなものだ。

 この詩から、意義のある箴言めいた言葉を一節でも抜き出せはしない。これは母に向けた表白、それも送金をお願いするような惨めな独白であり、それはボードレールの序詩に要約される苦悩の円環をついに逃れることができないだろうことを暗示する。

僕等の罪科は執念深く、後悔の方は醒め易く、懺悔はしても埋合わせはたっぷり受け取り、一切の穢れも賤しい涙で洗い流せばそれまで、鼻唄まじり、また泥道に舞い戻る。

 僕はこの詩をひどく貶したかもしれない。だけど、僕はこの詩を愛してやまないのだ。彼のこの詩を読むたびに、心を射抜かれたような感動と、あたたかな慈しみを覚える。彼の詩に惹きつけられるのは、彼と同様の苦悩や悲しみに同調できるからだけではない。彼の詩にあるのは、実直とさえ言える感情の吐露であり、そこには詩につきもののーーまるで自分をたいした人間にでも見せたいかのようなーー修辞学に彩られた仰々しいメランコリーはない。彼は言葉を紡ぐ中で、なにひとつ嘘をつかず言い訳がましくもない。かぎりなく自然で素朴な表現になるよう言葉を削ぎ落としている。親友と語らう時のように僕は安堵する。僕にも仲間がいる、と。

 ボードレールという題は、詩の補遺であると同時にシュワルツの人生観を補完するものでもあるのだろう。生きることの苦しみに彼が見出した救いは、ボードレールという生き方、彼の詩の「体現者」として生きることだったように思う。彼は結局、自殺という形で自らの人生に幕を閉じた。その経緯は翻訳された文献が少ないだけに詳しいことは分からない。アルコールとドラッグに生活を蝕まれたという噂である。その選択が正解だったとは思わない。思わないにせよ、そうした生き方には社会の外れ者には、少なからず人生の"救い"を見出せるものだ。社会のルールを寄せつけない冷徹な思考には、シニカルさが付き纏う。それは外にある世界だけでなく、むしろ自分の裡へと向けられる。それは孤独な戦いだ。こうした不安や悲しみに寄り添えるものは、やはり同じ戦いを生きる者の言葉をでしかあり得ない。

 人生の健全で優良な享楽の実践ばかりが注視され、人生と向き合い対峙する者の"救い"には誰も理解がない現代、シュワルツがボードレールの詩に救いを見出したのと同様に、僕にはシュワルツの詩に安らぎをえる。

5月1日

夢日記

図書館へ出勤すると、知らない新入りが増えている。何故か今日は数人を残して早上がりらしい。仕事を済ませ閉館の時間になる。みんなで集合すると、(職場の女の子)Nさんが俯いてとても悲しそうな顔をしている。僕の締め作業は、閉館の放送の曲にあわせてベースを弾くことだ。


姉と同じ風貌をした人「なつきはすごいよ、うん、他の曲なんかはずっと」


閉館間際、中東系の男性が本を返しにくる。K大学関係者ではなく又貸しらしい。窓から挨拶をする。その場では気づかなかったが実家のキッチンのような場所だ。こまるなと思いながらいくつかやりとりをして、返しにきた本にW大学と印字されていることに気づく。その図書館は別の場所にあることを教える。彼は叱られたと思ったのか、いじけた様子で少しゴネる。が、自分は怒っていないという態度を表すと安心したのか、納得して帰っていった。


帰り支度中、友達の話になる。

僕「友達か、欲しいな」

(職場の先輩)H「もういるだろ。3人もかわいい子が。あんなに悲しませておいてよくそんなこと言えるな」

胸ぐらを掴む。どういう意味だと聞き返す。動揺しながら彼は言った。

H「なんだ、なんだよ?気でも狂ったのか?」

 

帰ろうと外に出ると、いつの間にか、図書館は実家になっている。ガレージにでる。自分が乗ってきた自転車がある。外は真っ暗だ。帰れるかどうか不安になる。自分の革靴がないことに気づく。


「忘れ物はすべて箱の中に閉まったよ」と、見知らぬ新人がいう。工場員のような風貌である。みんなに探してもらうが、どこにもない。誰かが言う。残りはチーフが蔵の中に閉まっちゃったよ。蔵の方に向かうと、(チーフの)Oさんだった人はMさん(古本屋に勤めていた頃の店長)のような風貌になっている。しかし、現実の彼女と違い、とても優しい。声は母さんのようだ。


蔵の中はとても広い。屋根裏にいく。迷路のような場所だ。昔、何度か夢の中で同じ光景を見たことがある。足場の悪いところで危険な思いをする。小さなふすまをつたい屈みながら歩くのだが、背後は階段、真下までは3メートルもあってもたれるものも何もない。

やっとのことで屋根裏へ。靴を探す。箱を開いてもひらいても見つからない。チーフが母の姿をしてやってくる。一緒に探してくれる。

だんだんと世間話になってくる。不愉快な新人の悪口を長々と喋り出す。うんざりした目がさめる。

4月26日

 

 高校の頃、ぽつねんと自室にこもってイギー・ポップの『idiot』を何時間も聞いたことがあった。ちょうど今日のような寂寞とした物悲しい1日の終わりに。瞑想するように、何度もCDを回し直し、音楽に耳を傾けていた。

 

 イアン・カーティスが自殺する直前に聞いていたレコードが『idiot』だと知ったのは後のことだった。彼に大きなシンパシーを感じたのを覚えている。自分は彼の生まれ変わりかもしれないとまで考えた。それからUnknown PleasuresのTシャツを買い、彼のポートレイトをスマホの待ち受け画面にし、煙草さえ彼の吸っていたマルボロに変えた。彼の人間性に大きく感化されてしまったわけだ。

 

 今日、不意にそんな高校時代の日々を思い出して、彼の伝記映画を借りようとTSUTAYAに足を運んだ。『Control』というタイトルを思い出せずスマホで調べると、同時に彼が自分と同い年で死んだことを知った。しかも、彼の忌日は来月だという。

 

 彼の背中を追い続けて生きていたのに、いつのまにか彼と年齢を並べていて、しかも今年には彼を追い越してしまう。わかりきっていたことなのに、必然を受け止められない自分がいる。

 

 イアン・カーティスには、いつまでも目上の、それも自分の分身のような存在でいて欲しかった。彼と歳を重ねる頃には彼と同じように自殺するだろうと、長いこと内心では思っていたから。

 

 『idiot』の中のTiny Girlsを聞きながら、ぼんやりと考える。彼のようになれなかった自分について、彼が死ぬ前に考えていたことについて。彼の身を滅ぼした恋愛について。自分が恋する人のこと、彼女に対する自分の振る舞いについて。

 

 プラトンは、著者『パイドロス』に於いて、恋における狂気を推奨する。狂気は神からの授かりものであり、「われわれの身に起こる数々の善きものの中でも、その最も偉大なるものは狂気を通じて生まれてくる」と。彼の言い分は正しいのだろう。事実、そうして不朽の名作『Love Will Tear Us Apart』も『Celemony』も生まれた。

 

 だが、彼の馬は、魂をバラバラに破壊してしまった。結局のところ、それほどまでに傷つき悲しみを抱えるに至っても、愛の狂気は個人にとって「善きもの」なのだろうか。結果として、そして皮肉にも彼の夭逝はその名を不動のものにした。ロックの体現者、ニーチェ的な実践者、「ロックンロール・スーサイド」として。だが、それはイアン・カーティス個人にとって「善きもの」だったのだろうか。そんなことをふと思う。

 

 無論、わかっている。そんな問いをたてることに何ひとつ意味なんてない。彼と同じような恋に悩んでも、僕は彼ではない。僕は彼のようになれない。彼のような最高の音楽は作れない。自殺する度胸もない。苦しみを昇華させることも、身の破滅も選べない。自分はその程度の人間だ。だから、彼と同じ立場で考えているなんて思うことが、おこがましいというものだ。

 

というのも、ぼくは知ってる、みんな知ってるんだーー

夕方も、朝も、午後も、みんな知ってるんだ。

自分の人生なんか、コーヒー・スプーンで量ってあるんだ、

遠くの部屋からもれてくる音楽に押しつぶされ

絶え入るように消えてしまう声など、知ってるんだ。

 

 彼の幻影に自分を重ね合わせることが、これからは惨めな行為に他ならないことも、腐臭を放ちながら老いていく自分の醜悪さも、あらゆることを思いながら、『Closer』を聞く。もし彼が自分だったら、彼が自分の側にいたらと考えては、彼の詩に耳を傾ける。

 

4月21日

 

 昨夜みた夢について覚書

 

 昨夜、ながいながい夢をみた。起きると同時にほとんどのことは忘れてしまった。夢の中で僕は中学生だった。今では絶縁してしまった古い友人たちと代わり映えのしない数日間を過ごした。夢の最後で誰かが詩を朗読しはじめた。

 

『愛は雪のよう 火照るほどに消えてしまう 愛はアイスクリーム あつくなければ欲しがらない 君を好くほど溶けていく……』

 

 目が覚めてると時刻は11時、部屋の中を陽光が満たし、ほんの少し暑かった。

 

 

 貧しさについての覚書

 

デカルトの「我思う故に我あり」について)『「私は思考する」は時間を触発し、時間の中で変化し、一瞬ごとに意識のある度合いを呈示する、そんな自己の実在のみを規定する』(ジル・ドゥルーズ 『カント哲学を要約してくれる四つの詩的表現について』)

 

 1日、また1日と過ぎていく時間がとても重く感じる。給料日まであと2週間もある。その間は1日2000円も使えない。貯金もないのだ。禁欲的にならざるを得ない。

 

 いつからこのような貧しい日々が始まったのだろう。大金を使った記憶はない。人と交流することもない。考えてみれば、ずっと貧しかったのかもしれない。気づかなかっただけなのではないか。そのように記憶を疑ったところで真実を知る由もないのだが。

 

 今の自分にできることはたった一つのこと。今月が終わって給料が支給されるそのときまで待つことのみだ。その先の暮らしがどうなるかなんて知ったことではない。カフカの『断食芸人』のように、この貧しさを耐え忍ぶこと、それが今日を生きる目的になりつつある。

 

 貧しくなればなるほど、僕は自分が現在生きているという事実について強く認識する。

 

4月8日

 

 フロムの『自由からの逃走』をメモしながら読み進めている。かなり興味深い。「人間存在の自由とはその発端から切り離せない」とかれはいう。現代日本人における「自由」の束縛とはなんだろうか。「ネトウヨ」や「キモオタ」にみられる男性中心主義やミソジニーと「TERF」にみられる極端なミサンドリーとは、もしかしたら同じ発端に遡るのではないだろうか。そんなことを思った。