6月10日

 

 不意に本棚を眺め『アメリカ現代詩101人集』という懐かしい本を手に取ると、そのままデルモア・シュワルツの詩を読むことにした。この本は、彼の詩が読みたいがために買ったも同然だった。

 もっとも、詩集の中に彼の詩は一篇しか載っていない。「ボードレール」という題で、お世辞にも(翻訳が悪いのかもしれないが)卓越した詩とは呼べない。ボードレールの「惡の華」の序詩にインスピレーションを受け、彼の生活そのままの叙景に言葉を移し替えたようなものだ。

 この詩から、意義のある箴言めいた言葉を一節でも抜き出せはしない。これは母に向けた表白、それも送金をお願いするような惨めな独白であり、それはボードレールの序詩に要約される苦悩の円環をついに逃れることができないだろうことを暗示する。

僕等の罪科は執念深く、後悔の方は醒め易く、懺悔はしても埋合わせはたっぷり受け取り、一切の穢れも賤しい涙で洗い流せばそれまで、鼻唄まじり、また泥道に舞い戻る。

 僕はこの詩をひどく貶したかもしれない。だけど、僕はこの詩を愛してやまないのだ。彼のこの詩を読むたびに、心を射抜かれたような感動と、あたたかな慈しみを覚える。彼の詩に惹きつけられるのは、彼と同様の苦悩や悲しみに同調できるからだけではない。彼の詩にあるのは、実直とさえ言える感情の吐露であり、そこには詩につきもののーーまるで自分をたいした人間にでも見せたいかのようなーー修辞学に彩られた仰々しいメランコリーはない。彼は言葉を紡ぐ中で、なにひとつ嘘をつかず言い訳がましくもない。かぎりなく自然で素朴な表現になるよう言葉を削ぎ落としている。親友と語らう時のように僕は安堵する。僕にも仲間がいる、と。

 ボードレールという題は、詩の補遺であると同時にシュワルツの人生観を補完するものでもあるのだろう。生きることの苦しみに彼が見出した救いは、ボードレールという生き方、彼の詩の「体現者」として生きることだったように思う。彼は結局、自殺という形で自らの人生に幕を閉じた。その経緯は翻訳された文献が少ないだけに詳しいことは分からない。アルコールとドラッグに生活を蝕まれたという噂である。その選択が正解だったとは思わない。思わないにせよ、そうした生き方には社会の外れ者には、少なからず人生の"救い"を見出せるものだ。社会のルールを寄せつけない冷徹な思考には、シニカルさが付き纏う。それは外にある世界だけでなく、むしろ自分の裡へと向けられる。それは孤独な戦いだ。こうした不安や悲しみに寄り添えるものは、やはり同じ戦いを生きる者の言葉をでしかあり得ない。

 人生の健全で優良な享楽の実践ばかりが注視され、人生と向き合い対峙する者の"救い"には誰も理解がない現代、シュワルツがボードレールの詩に救いを見出したのと同様に、僕にはシュワルツの詩に安らぎをえる。