4月26日

 

 高校の頃、ぽつねんと自室にこもってイギー・ポップの『idiot』を何時間も聞いたことがあった。ちょうど今日のような寂寞とした物悲しい1日の終わりに。瞑想するように、何度もCDを回し直し、音楽に耳を傾けていた。

 

 イアン・カーティスが自殺する直前に聞いていたレコードが『idiot』だと知ったのは後のことだった。彼に大きなシンパシーを感じたのを覚えている。自分は彼の生まれ変わりかもしれないとまで考えた。それからUnknown PleasuresのTシャツを買い、彼のポートレイトをスマホの待ち受け画面にし、煙草さえ彼の吸っていたマルボロに変えた。彼の人間性に大きく感化されてしまったわけだ。

 

 今日、不意にそんな高校時代の日々を思い出して、彼の伝記映画を借りようとTSUTAYAに足を運んだ。『Control』というタイトルを思い出せずスマホで調べると、同時に彼が自分と同い年で死んだことを知った。しかも、彼の忌日は来月だという。

 

 彼の背中を追い続けて生きていたのに、いつのまにか彼と年齢を並べていて、しかも今年には彼を追い越してしまう。わかりきっていたことなのに、必然を受け止められない自分がいる。

 

 イアン・カーティスには、いつまでも目上の、それも自分の分身のような存在でいて欲しかった。彼と歳を重ねる頃には彼と同じように自殺するだろうと、長いこと内心では思っていたから。

 

 『idiot』の中のTiny Girlsを聞きながら、ぼんやりと考える。彼のようになれなかった自分について、彼が死ぬ前に考えていたことについて。彼の身を滅ぼした恋愛について。自分が恋する人のこと、彼女に対する自分の振る舞いについて。

 

 プラトンは、著者『パイドロス』に於いて、恋における狂気を推奨する。狂気は神からの授かりものであり、「われわれの身に起こる数々の善きものの中でも、その最も偉大なるものは狂気を通じて生まれてくる」と。彼の言い分は正しいのだろう。事実、そうして不朽の名作『Love Will Tear Us Apart』も『Celemony』も生まれた。

 

 だが、彼の馬は、魂をバラバラに破壊してしまった。結局のところ、それほどまでに傷つき悲しみを抱えるに至っても、愛の狂気は個人にとって「善きもの」なのだろうか。結果として、そして皮肉にも彼の夭逝はその名を不動のものにした。ロックの体現者、ニーチェ的な実践者、「ロックンロール・スーサイド」として。だが、それはイアン・カーティス個人にとって「善きもの」だったのだろうか。そんなことをふと思う。

 

 無論、わかっている。そんな問いをたてることに何ひとつ意味なんてない。彼と同じような恋に悩んでも、僕は彼ではない。僕は彼のようになれない。彼のような最高の音楽は作れない。自殺する度胸もない。苦しみを昇華させることも、身の破滅も選べない。自分はその程度の人間だ。だから、彼と同じ立場で考えているなんて思うことが、おこがましいというものだ。

 

というのも、ぼくは知ってる、みんな知ってるんだーー

夕方も、朝も、午後も、みんな知ってるんだ。

自分の人生なんか、コーヒー・スプーンで量ってあるんだ、

遠くの部屋からもれてくる音楽に押しつぶされ

絶え入るように消えてしまう声など、知ってるんだ。

 

 彼の幻影に自分を重ね合わせることが、これからは惨めな行為に他ならないことも、腐臭を放ちながら老いていく自分の醜悪さも、あらゆることを思いながら、『Closer』を聞く。もし彼が自分だったら、彼が自分の側にいたらと考えては、彼の詩に耳を傾ける。